アラビアのロレンス 回顧展 & 足跡を巡る旅 in UK Feb/2006

"Lawrence of Arabia : the life, the legend" at Imperial War Museum London / part 3

カルケミシュにて

大学を卒業したロレンスは、ホガース博士による大英博物館の発掘調査隊に助手として参加することになった。途中でレオナルド・ウーリーに引き継がれたこの調査隊は、シリアの北部カルケミシュで、古代ヒッタイト文明遺跡の発掘を行った。
ロレンスのおもな仕事は発掘品の記録と写真撮影、そして現地で雇用する人夫たちの管理だった。
ここでの生活で彼のアラビア語はさらに磨かれ、また学生時代の徒歩旅行の経験から、現地の習慣を理解する彼は、近隣の村から集まったアラブ人たちから頼られる存在となり、現地を訪れた弟のウィルは「兄は村の領主のようになっていた」と語ったという。

また、当時トルコの支配下にあったシリアでのこの3年間の生活で、「アラブ民族の独立」への思いがロレンスに芽生えたとも言われる。

そんな日々の中で、彼はダフームと呼ばれる少年と親しくなった。ダフームは、色白("ダフーム"は逆に”色黒”の意味)細身のハンサムで、この利発な少年を気に入ったロレンスは、助手として写真撮影の技術を教えたり、常に行動を共にした。また、ダフームもロレンスを敬愛し、彼の命を何度も救った。
後にアラブの独立戦争に身を投じたロレンスは、その理由を「ある人物への非常に個人的で特別な感情」(要は恋愛感情?)と語り、そしてこの戦争を記録した自著「知恵の七柱」の中の詩「TO S.A.(S.A.に捧ぐ)」の対象はダフームと考えられている(彼自身は大戦中に病気で死亡している。)

「ここでの生活を放棄して、オックスフォードの博物館に仕事を求めるだなんて、考えられない」と、家族に書き送り、このカルケミシュでの日々は、ロレンスの人生でもっとも幸福な時期だった。

その後、さらにロレンスの人生を変える出来事が起こった。
トルコ支配下の北アラブ地域の重要性を感じていた英国軍は、ウーリーとロレンスに軍事調査を依頼した。彼らは考古学調査としてトルコ軍から許可をとりつけ、6週間に渡り調査をした。
この調査旅行は「ジンの荒野」の名でまとめられ、考古学的に高く評価されたが、その一方で、ロレンスが軍事に関わる第一歩でもあった。


カルケミシュでのロレンス
回顧展ガイド本から拝借
 

通路を曲がると、カルケミシュで発掘されたレリーフや土器、そしてロレンスが記録したノートなどが置かれていました。

その中にロレンスのサインが残るアレッポ(カルケミシュ近くの街)のホテルの宿帳があって、他の人達が住所を「USA」や「UK」と書いているのに、ロレンスはいきなり「カルケミシュ」と書いていて、思わず笑ってしまいました。いかにロレンスがここで幸福だったかを物語っているみたいでした。

そしてロレンスとダフームがお互いを撮り合った写真や、発掘現場のメンバー全員の記念写真が飾られていました。大勢の人夫たち、ウーリー、半ズボンのロレンス、人夫頭のハムーディ、そして自慢げに太刀を掲げるダフーム。のどかで楽しそうな写真でした。

「んっ?なんだ、これ?」
ふと下を見ると、展示物が並ぶ柱の影に、小さな本が吊り下げられていました。見逃してしまいそうなその本を手にとってみると、それは表紙に「カルケミシュ」と金で刻印されたアルバムでした。開くと、ロレンスが撮影したダフームの写真や、ウーリー達が語ったダフームの思い出が書かれていました。

ロレンスにとってダフームが大きな存在だったと知っていて、ここで立ち止まる人には、こんな本を用意しておく・・・こんなニクい演出は、三越にはやれないよね〜っ(笑)(この回顧展には、中高生の団体もよく来ていたので、あまりこの話題を堂々と展示するのは、ちょっとねぇ〜ってコトだったかも??)

そして次のコーナーでは「ジンの荒野」のオリジナル本や、調査に使った機器が展示されていました。

大戦勃発

1914年、第一次世界大戦が始まり、ドイツに続いてトルコが参戦した。英国軍はトルコ支配化のアラビア地域のスペシャリストたちを集結させ、その中にロレンスもいた。
カイロの情報部で、ロレンスはトルコ軍やアラブの情報をまとめた冊子や地図を作製した。捕虜の身体的特徴やなまりから出身地や職業まで当ててしまうロレンスは、同僚たちを驚かせていた(って、おまえはホームズかよ(笑))
しかし職業軍人を毛嫌いするロレンスは軍の規則を無視し、その態度にいらだつ上司も多かったが、彼の能力や人間的魅力を評価する者もいた。またアラブ民族の独立について熱心だったロレンスは、アラブの秘密結社などとの接触を持ち始めていた。
そしてこの時期、二人の弟の戦死はロレンスに大きなショックを与え、机にしがみついている自分に罪悪感を感じ始めていた。

その頃、アラビアでは大シェリフ(王)フセインが英国の支援を求めていた。トルコはアラブ民族に英国への聖戦を呼びかけていたが、しかしフセイン王は聖戦はあくまで防衛戦であるべきと考えていた。また、先に反乱を起こしたアルメニア人が大虐殺され、アラブ社会はトルコの支配に恐怖を感じていた。そこで英国の支援を取り付けたフセイン王は、トルコへ反乱ののろしを上げた。
フセインの4人の息子たちの戦いは当初は成果を上げたが、思うように届かない英国からの援助や、トルコの近代兵器に次第に苦しめられていった。

援助を約束しながら、反乱に無関心な英国に対して歯痒さを感じていたロレンスは、度々上司と衝突していた。ホガース博士の元に新設された軍の情報組織「アラブ局」への移動を希望したロレンスは、上司の文章のあら探しをするなどの嫌がらせ作戦を開始(?)その甲斐あって、彼は「アラブ局」へ追い出され、そして反乱の現状を調査するため、アラビアの港町ジェッダへ向かった。

 

ここにはアラブ局でロレンスが編纂した「アラブ報告」(目次の最後にわざわざ鉛筆書きで「編集:T.E.ロレンス!」と書いてある(笑))、そして末の弟アーノルドに送ったアラブの切手や手紙がありました。年の離れた弟に、異国の記念品を送るロレンスの愛情を感じました。でも、戦後に、自分が戻る事ができなかった考古学者の道をこの弟が進んだ時、ロレンスは素直に喜べたんだろうか、なんて、ちょっと考えてしまいました。

T.E.ロレンスを巡る旅

Feb/2006
アラビアのロレンス 回顧展 & 足跡を巡る旅 in UK

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July/2007

番外編

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